死について

旧サイト記事

目次 

0.序論

1,解釈Ⅰ-マジの絶望

2,解釈Ⅱ-不感症

3解釈Ⅲ-SMとその外部

0,序論 

不老不死になろうとも、必ずや形を変えて”死”は存在する。

不老不死になったら、忘れ去る記憶だとか、アイデンティティが変わるだとか、とにかく死ぬ。死ぬのだ。不可能性というのは常に存在する。

すべてができる世の中になろうとも同じことだ。我が拙作倫理デバイス(2)、もしくはなめらかな世界と、その敵。になってしまうだろう。前者はあらゆることが意味不明になってしまうという死である。複雑怪奇になりすぎた世の中、たとえ考え付くすべてができようとも、かつ無限時間を過ごせるとしても世界を理解できることはない。良く分からない絶対的な外部の構造が自分にはまるで理解できない形で延々と肥大化していく。そんな死。後者は一回性の死である。全てが可逆性を帯びるという事は、逆に不可逆性を殺すという事である。全てができるという事は。全てを虚しくする。

死ぬ。この場合の死とは要するに不可能性のことである。

解釈そのⅠ

昔から俺は死にたくなかった。病んでいた時に”死にたい”と口にすることはあれど、それは”穴があったら入りたい”の上位版みたいな、ただの変奏であった。しかし、なぜこうも死にたくないのか。理由は良く分からなかった。俺の友達には死にたがる人間が多い。それは俺と同じようにただ実存的に嫌なことがあった。程度の意味なのか、たとえすべてがうまくいっていたとしてもそれとは無関係に死にたいと望むのか。俺にはその区別がつかない。つかないが、後者だった場合まるで理解できないという事だけは分かる。

俺は死にたくない。しかしこう考えたこともある。ならば永遠に死なないのはどうか? 結論としては、”それもたまらなく怖い”のだ。

要するに、詰んでいる。

俺は病んでいた。病んでいたが、ほかの一般に”病んでいる”人間の気持ちがまるで分からなかった。俺は死にたいわけではまるでないからだ。言っちゃあ悪いが、正直”レベルが違う”などと思っていた。俺のほうが絶望してる。むしろ俺は死にたいという人間を少しうらやましいとさえ思っていた。それが、何回も言うが単なる”実存的なことでつらいことがあった”という意味ではなく、本当に”死にたい”のだとしたら……それほど良いことはないではないか。と。願望が成就されることが絶対的に保証されている。俺は願望がいかなる場合分けにおいても成就されないことが保証されているわけだ。

もっと言うと何なら俺は病み界隈を嫌っていた。俺に連帯などありえなかった。お前らは所詮実存レベルの話で辛い辛い言ってるだけだ。そんなんは一時的なもんだし、何ならいくらでもよくなりうる希望を持てるじゃねえか。俺がどんだけ絶望的か知ってんのかお前ら?

解釈そのⅠ-マジで絶望している 終了

解釈そのⅡ

俺は死にたくない。というのは実は嘘であり、そうでもない。死は単なる現代における不可能性の最たるものだから重視しているだけだ。欲求不満のうちが華であり、掌握したものの良さは全て指の隙間から零れ落ちてしまうものであるという価値観を持っている。基本的に何でもできる世の中、もしくは自分になってしまった。自分がしたいと思いうることで、実存的なことでもう絶対にこれができないな、ということが、昔からあまりないのである。俺は恋に恋するタイプである、それは恋に対してではなく、概念に対して。しかし大体望むことはできてしまう。この世は真っ平で、空疎だ……ああ確かにこれは、2chなのでよくお笑い種として語られる”俺感情がない”みたいなそういう中二臭いノリに見えるであろう。ではかっこ悪い事を言っておく。あくまで程度問題であり、恐らく俺は拳銃を突き付けられて脅されたら泣きわめきうる。何なら失禁や脱糞までしうるという事をここに保証させていただく。これで満足だろうか。私は中二病→その乗り越え、のさらにその次にいる。そういうコピペを笑った経験を通過してきた上で、それでも不感症であると主張しなければいけない状況になっているのだ。自らにとって”恥ずかしい”ことであっても、言わざるを得ない。さて、そんな不感症患者は何に縋って生きていけばいいのだろうか。

不可能性だ。

不可能性に賭けるしかない。

できることは全て虚しくなってしまった。しかし人生に意味を見出したい!

俺が有限性に囚われ、虚しい生を送っているのは偏に”死”があるからだ!これさえ、これさえなければ……!と、ある種の絶望的な”希望”をもって日々を過ごすことができる。”死” 否、”絶対的な不可能性”は、不感症の人間が生きていくために必要なものなのだ。解決出来ないのだから、解決できない其れさえなくなれば俺は虚しくなくなるんだ……!というのが本当なのかは分からない。そう、”わからないからこそいい”のである。手に入ってしまっては終わる。手に入らない部分に、すべてを解決する鍵があると思えば、世界に価値を与えることができる。

解釈Ⅱ -不感症が生きていくために 終了

解釈Ⅲ

俺は死にたくない。ムカつくからだ。

S、M、その外部という三項を定義させていただく。

Sは他人に影響を与えたい。Mは与えられたい。その外部は与えられたくない。

俺は自分がどれか良く分からない。分からせたいのか、分からせられたいのか。分からせられたくないのか。そもそもこの分類は正当なのか、正当だとして、個人とそれらが一対一で結びつき、例外はないのか。それとも、気分によって人間はSになったりMになったりその外部になったりするのか。まあそのような話を脇において、俺は少なくとも死に対しては”その外部”なのである

死神は最強のドSだ。

そいつは、したいことだとか、思想だとか、状況だとか、人間関係だとか、義務だとか、約束だとか。何でも。ありとあらゆる要素を一切考慮してはくれない。来るのだ。俺たちはなされるがままに死ぬしかない。

ふと思った。死神が最強のドSなら、”死にたい”という欲望は要するにドMのそれではないか。と

要するにSというものの極み、ドSの欲望というのは”殺したい”になる。影響を与える、魅力で蹂躙するという事は、他者に自分のリソースを割かせることである。その究極系が殺すことである。俺が殺さず生きていれば、ほかの他者に割いていたであろうリソースを、まさにその”俺が殺すとき”のみに全て!収束させる……

Mというものの極みは”殺されたい”である。死は何よりも強い。最強の”わからせ”概念なのだ。自らの意思とは関係なく殴ってくれる、奪ってくれるのが通常のSMプレイだとしたら、自らの意思とは全く関係なく”文字通り全て”を蹂躙し、奪ってくれる最高のご主人様。それが死なのだ。この辺の話は、エロスとタナトスが相反する理由に絡めて見ても面白いかもしれない。

しかし俺はそのどちらでもねえ!その外部なんだよ!お前らだけで勝手に気持ちよくやってろやクソが!!!俺は分からせられたくねえ!!!クソがよ!!!死とかいうゴミがよ、あー今後ゼッタイ分からせられることになるのムカつくクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

解釈Ⅲ -三分類による説明 終了

Ⅰは普通に絶望している。

Ⅱは寧ろ生きる希望として絶望を利用している。

Ⅲは強いて言うなら闘争心である。負けるとムカつくから嫌。

コメント

タイトルとURLをコピーしました