書いている途中でやる気のなくなった記事:ワードサラダについて

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私はワードサラダというものが大好きだ。思えば、かれこれ5年以上は好き好き言っている。

知らない人のために軽く。そもそもワードサラダとは何か、辞書的な定義はこうだ。

ワードサラダ(Word salad)、言葉のサラダとは、文法としては正しいが、意味が破綻している文章のこと。-wikiより

「ワードサラダ」で検索するとご丁寧に、ワードサラダにSEO的な効果(簡単に言うと集客効果)は無いどころか、これをブログで行うとWebサイトの評価を下げる原因にもなるから、絶対に行わないように!といった旨の解説サイトが一番上に出てくる。

どうやらgoogleのAIがサイトを評価する際、文章の量が豊富か否かという指標を採用しているらしい、じゃー意味のない”ああああああああああああ”とかのクソ長い羅列で構成されたも文章が多い良いサイトか?基本そんなことはない(例外:アンサイクロペディア参照)ので、googleのAIは文法的に破綻した文章かを判断し、そういうサイトは評価しないという機能が付いているらしい。良かった。これでちゃんと考えられた内容のある文章よりも適当な文字列が評価されるという事態は免れた。

がしかし、Google側の「ちゃんとしてくれ」という要望から生まれた文法的エラーがないかのチェックさえも掻い潜り、楽して評価を得ようとする人というのは居るもので、そいつらは「じゃあ、文法的には正しい文章をAIで自動生成しまくれば評価高められるじゃん!」と、こうしてワードサラダというものを矢鱈と羅列する層というのが出現し始めた。AIに「この文章に意味があるか否か」を判別させるのは至難の技であり、実際に当サイトの”倫理デバイス”などに”意味があるか否か”という判定を下すのは人間でも難しいだろう。意味があるとは、何かーみたいな話を俺は個人的にはあまりしたくない。(こういう”哲学的”アプローチを俺は好んでいると思いこんでいたが、おそらく俺が好きなのは、何故か誰も言わない、概念に対する工学的=原理的ではなく効果的な態度の模索、のようなものである。原理的な模索はそれ単体で楽しいものだが、総合的に見て、それは応用の為である)”意味がある”に明確な定義を与えられるか否かなんて話はどうでもよく、というかそんなものは端的に言って与えられないだろう。単に「悪意がないか」「実際に楽しんでいる他人がいるか」などの要素によって事後的に与えられるものでしか無い。例えばAIの自動生成だろうとそれに需要を感じている層に向けられて色々改良などがされているものであったら、意味があることになろう。全く同じ文章でも置く場所や状況によって意味があるということになるかは変わってくる。だから文章のみから意味があるか否かを”原理的に、完璧に”判別する方法なんてのは、無いと思う。ただ傾向があるのみである、ただまあAIは傾向を捕まえられればそれで良いのだろう。極端な例外を無視、弾圧することは、文明社会の前提条件だろうし。こうして倫理デバイスはスパムとして処理される。

話が逸れた。

んでまあなんかワードサラダも今となっては厳しく審査されているから、ダメらしい、やんないほうがいいらしいよ(だるくなったので雑に終わらせる)

で本題、そう本題に移りたい。

ワードサラダは意味が取れないのだから、内容において差をつけることは難しいだろうと思うかもしれない。要するに画一的な意味不明さが羅列されているだけであり、ワードサラダの本があったら、どのページを開いても得られる感覚は似たようなものだ、と思うかもしれない。ワードサラダが好きな人というのは「意味不明さ」を求めており、繰り返すがそういう本があったらどのページを開いてもその感覚は得られるーとか、そう思っていると思われるかもしれない!

ワードサラダの良さを分析した結

だ、ダメだ……

何もかも、だるくなってきました

全身が終わってきました。全身牧場にて完全に無辜になっていた俺は、隠喩としての、人類史に於ける冠婚葬祭的なものを大体担っていた俺は、どうやらいつかは、必ずやいつかは、その公共性を自覚させられるということの延伸になりすぎていたかもしれない。いや……そんなことはとうの昔に実は気付いていたんだ。

これは、僕の、ツイッターの、アカウントです、これを、詳しくは、これを、読んでください。

てかさ、俺は”正直者”だからこういう形式を取るけど、別にTwitterからこの文章をコピペしてちょっと改良すれば”はい、ちゃんとやりました”ってなるんだろ、体裁とかいう概念が世

フラクタルにS字型の完全な円、ってマジでありえなさすぎて面白すぎる。

例えばこれとかもいいよね。”ワードサラダなのに、なぜか情景や雰囲気というものは一定のような気がしてきて、何もわからないのに当人にとっては意味がありそう”って感覚が生まれて良い。キモくていい。単なる構造の破壊、意味不明で複雑すぎるから面白いのではなく、ある種「上げて落とす」からこそ面白い。”構造があるように見える部分があるのに、意味不明”という状況こそが良い。

「眠れないんだ」「代入するな」→言われてしまう。からの、「バーボンは」「イルガンだ」→”やはり”言われてしまう

という流れ。話していることは少しもわからないのに、その2つのやり取りの間に同型性があるという構造だけが推測できてしまう。何もわからないのに、”やはり”という意味っぽい言葉の使用”だけは”有効に使っているように見えてしまうキモさ。まあ勿論ちょっとこうやって言語化すると少し違うな~うまく言えないな~という感覚を残すが。それもそのはず、この作業というのはそもそもがあるギャグの面白さが分からない人のためにその面白さを改めて説明するというあの寒い作業の亜種のようなものだからだ。一種の捨象をしないと伝わらないもどかしさ。各自が好きにキモさを拾って読んでくれと思う。

何もまとまらなかったが、今回はこの辺で。

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