世界しかない虚しさ、私しかない虚しさ。

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特殊性の否定による(普遍性の肯定による)虚しさ

本質主義的、全体主義的、過激派宗教的、リア充的、真理漸近的な虚しさ。”私”単体にどれほど価値があろうか……本質主義的には、私というのは普遍的な本質のただの具体例である。”私”は普遍的で高尚な本質からしたらどうでもいいものである。全体主義的というのはもっと分かりやすく具体的にいうと、例えば学校や社会などによる個人性の抑圧である。自分より大切な全体のために皆がルールを守るといった論理だ。宗教的な過激派は神のために自らを犠牲にすることさえも厭わない。リア充的というのは、リア充的コミュニケーションというのが自らの特殊性の発揮ではなく、”その場のノリ”(この場合これが自らより高尚な、普遍なもの)に合わせるという事を求めるからである。(勿論、オタク的なリア充も想定できる。リア充と形容されるすべての人間がこうであるという主張ではない)真理漸近的な虚しさというのはこれらを包括する用語である。自らのパーソナリティとは全く関係ない何か高尚なものを置き、どれだけ無私に、それに漸近(追従)しているかですべてが判断される。

要するに普遍性の肯定による(特殊性の否定による)虚しさというのは、自らの外部に絶対的で普遍的な価値のある何かが存在するという点が魅力だが、それは同時に無私を強いられるものである。普遍性にとって”私”はどうでもいいものである。この世界観にとってこの”私”がどう感じるだとか、そういったことは至極どうでもいい、ノイズのようなものだ。何か絶対的な指標があり、それに無私に従順に近づいたか否かですべてが判断される。他者を尊重できる反面、自分を尊重できない。世界に価値を与えられる反面、自分に価値を与えられない。

普遍性の否定による(特殊性の肯定による)虚しさ

実存主義的、個人主義的、穏健派宗教、オタク的、動物化的な虚しさ。”私”に主眼を置く、実存主義的には、普遍性こそ人間の特殊性の産物であり、特殊性は普遍性に先立つものだという意見、具体的に個人主義的とはこの私という特殊性はかけがえの無いこの一度の”私”の生が、良くわからない、存在するかどうかも分からない絶対性/他者性なんかに塗りつぶされてたまるか。私は私のしたいことをする。というニュアンスである、穏健派宗教は普遍的なものが複数あること(それは矛盾である)を認める。オタク的というのは自己目的的に、他人から気味悪がられようとも、(リア充になれなくとも)自分のしたいことをしているという立場から。(勿論、リア充になりたいがオタクという例もある)そしてこれらは上記の無私であることを迫る普遍性肯定的なものよりも健全に映るかもしれないが、これらは動物化と表裏一体なのだ。

動物化とは何か、これは東浩紀の用語だが、要するに他者概念を考慮せず、高尚なものの存在を一切拒否し、自らのしたい事をただただして生きるという動物的な存在にポストモダン以降の人間はなりつつあるという主張の際に使われた用語だ。元来は神や天皇、真理、正しい政治理論などが人間をまとめていたが、現代にはそのような自己超越的な概念がなく、産業しかない。産業による肉体的な快楽のみを求めるのは動物でもできる、そこに意味はない。では精神的な活動ならどうか、これも高尚なものを一切おかず、単なる自己の快楽を目指すのならば意味は与えられない。動物化の論理は副作用の無いハッピードラッグや、無限月読、マトリックスで青い薬を飲むことを原理的に否定することが出来ない。普遍的、公共的、絶対的な実在性などは幻想で、自らが気持ちよければいいからだ。

普遍性の否定は、私に価値を置ける反面、世界に価値を置けない。ならば、自らの脳に電極を差し、自らの望む映像を見るだけで終わる人生をいかに否定できようか。

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